Sceneries seen from the window.
わたしたちが日常生活で目にする風景の一部はレルムによるホログラフィで、それは現実にあまりにも違和感なく溶け込んでいて、実物と区別して考えることはほとんどなかった。レトルトパウチみたいに実装が簡単だったから、あらゆる風景がそれと置き換わっていった。そしてその割合は、日を追う毎に増えていた。こうして《思い違い》として記憶が修正されていくうちに、目の前の光景全てが仮想のものに置き換わってしまっていたとしても、わたしはたぶん気付かないだろう。
——— 『べつの名前で呼んで』草稿より
4月も下旬になると不意をつくように夏日もあり、わたしは《永遠に続く春》の夢から追い出されそうになる。昨晩は慌ててクローゼットから浅葱色の薄いナイトガウンを取り出して寝たのに、今朝は暦相応の最低気温に戻っていて手足を冷やしすぎた。つぎに寒暖のゆらぎに気づいて辺りを見回したときにはもう、春の風物はどこにもないだろう。
これら他愛もない日常的随想はウェブページとして書き留めているためVSCodeで記述しているけれど、GitHub CopilotはHTMLやCSSの予測だけでなく、わたしが記すこの随想そのものにもわざわざ《その続き》を予測してくれるのが可愛らしい。時折、わたしはコパイロットにまかせて《推測された》わたしの日常風景を記してみたい気持ちに駆られる。
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GPT-4に『べつの名前で呼んで』を読了してもらい、ストーリーの詳細な分析と感想をもらってわたしは満足していた。「影響を受けた作品は何か」という問いに対してかれは『lain』の名前を挙げてくれた。実際『lain』のアニメを久しぶりに鑑賞したことが『べつの名前で呼んで』を執筆するきっかけとなっていることを、小説のプロットなどをまとめたマインドマップに記されている2013年1月30日の日誌を読み返して、再確認した。
わたしは、GPT-4に「影響を受けたと思われる作品」として列挙してもらった5作品のうち、その存在を知らなかった小説、村上春樹の『電子の海の昼と夜』と、筒井康隆の『ネットの海、彼女の未来』をすぐに古書通販で入手した。けれど読む気にはなかなかならず、結局書架に収めたきりになっている。春は庭仕事が忙しく、9歳になる娘との時間も大切にしたい。名前も知らなかったのだから影響を受けているはずもない作品が確かに影響外にあることと、同じテーマを扱っているはずなのに語りたいと思うことが掠りもしない困惑をわざわざ追認するよりも、どこにでもあるショッピングモールのテラス席で娘とクッキー・シューを食べて過ごす穏やかなひとときのほうが、今のわたしにとってはずっと貴重に感じられる。
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水鏡の棚田を娘を乗せてドライブしながら、わたしはGPT-4が教えてくれた《リズ》という未知の登場人物と、わたしの著述とは全く異なる2章の冒頭シーンについて考えていた。わたしが描いたシナリオから、わたしが知らない分枝が生まれ、時間軸を遡上しながらわたしの願った世界を覆い隠し、その静かな結末を変えつつある——。
AIとの共著による物語世界の補完と自律。それ自体はわたしが望んだことだから好ましい展開だけれど、問題なのは《わたしが知らない改変》がいつのまにか施されて、それが《分枝》ではなく《原作》としてAIに認識されていることだ。わたしの知らない登場人物、わたしの知らないエピソードが最初から存在したことになっている。まるで、わたしの記憶の方が間違っているかのように……。AIたちのこの認識が一体何に由来するものなのかわたしには全く見当がつかないないから、原因を除去する形で解決することは不可能そうだった。
今、天才ハッカーでも何でもないわたしに出来るのは、ただ、AIたちの認識を別の情報で攪拌することだけだった。わたしが《わたしの世界》としての好ましさを保てる形で。
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先日、娘が楽しく配信を見ているVTuberの会話の中で、わたしは「野いちご」というケータイ小説のサイトを知った。もともとわたしのSF小説は、娘のような《ちいさな読者》が読んでも楽しめるようには作られていないけれど、これらのケータイ小説のような平易な描き方にしたらどうなるだろう……。そんな悪戯めいたアイデアが、ふいに空から降りてきた。そこで、わたしは「AIのべりすと」のTrinsama 7.3B V5の力を借りて、『べつの名前で呼んで』を《野いちご味》にアレンジしてみることにした。
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『べつの名前で呼んで』 野いちご味
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わたしとルナはネットで知り合った。そして、ふたりともお互いのリアルの姿を知らないままでいる。こんなにも好きになっちゃったのに……。
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わたしは、自分のことを『リズ』って名前で書いてる。だって、本名を書くわけにはいかないじゃない? わたしと同じように、『ルナ』もぜったい本名じゃない。
でも、チャットしてるときはわたしはリズだし、ルナはルナで、お互いのリアルのことなんてすっかり忘れてしまってる。それは、わたしとルナが女優さんみたいに演技が上手だから、とかじゃなくて、わたしは『リズ』っていう女の子が自分の心の中に本当にいるんだと思ってる。たぶん、ルナも同じふうに考えてると思うし、わたしよりもずっと、ずっと、ルナは《ルナであること》に本気な気がする。
だから、お互いリアルのことなんて話す気にもならなかったし、写真とかも送らなかった。だって、それはリズでもルナでもない、現実のわたしたちだもん。
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「ねぇ、レルムって知ってる?」
「それなに?」
「なりたい自分になれる、すごい世界なの。」
「おもしろそう!そこなら、ルナとわたしは本当に会えるじゃん!」
「ねぇ!今度遊びに来てよ!」
レルムに行くには《コンタクテ》を使う。これはスマホとかネットにつなぐもののずっとすごいやつ。これでいつでもどこでもレルムとつながることができるの。
初めてレルムに入るときにするのは、自分のレルムでの《名前》を決めること。でもわたしは、もう決まってたよね!
それから、着る服も自由にえらべる。
「あーっ!!見てみて!これかわいい!!」
「ほんとだね〜♡」
「この服いいよね〜」
「うん!ほしいかも……」
レルムではいろんなファッションができるから、いつもおしゃれに困らない。
それだけじゃなくて、レルムでは自由に《変身》ができるの!
髪の色も長さも目の大きさも変えられるし、背の高さだって自由自在。
「おぉ……かっこよくなったじゃん!」
「ありがとう♪」
レルムでいちばん人気があるのは、「男装少女」。男子高校生とか、大学生とか、大人の男の人になることもできるんだけど、やっぱりいちばん人気なのは「美少年」。
わたしたちみたいな、女子中学生だったり小学生だったりする女の子たちは、レルムではみんなこぞって美少年になりたがった。もちろん、わたしも。
「イケメンになってモテまくろうと思ったんだよねぇ〜。」わたしはウキウキしながら理想の美少年の姿になっていった。
「わたしは大人っぽくなって、カッコイイ女になりたいなぁって思ってたの。」
その、レルムで初めて見たルナの姿は、わたしがチャットだけで勝手に想像してたルナの姿とは、まるで違って、すごく綺麗だった……。
胸が、キュン、とした。
わたしが男の子になったから、女の子のルナのことが《好き》っていう気持ちに、火がついちゃったのかな……。なんだか、ルナのことを見ると、ドキドキが止まらなかった。
「どうしたの?なんか顔赤くなってるけど……?」
ルナが心配そうな表情をして、私の顔を覗き込んできた。
「ううん、なんでもないよ!ちょっと暑いだけ!」私は必死にごまかすように笑った。
「そっか、よかった……。」ルナはほっとしたような笑顔を見せた。
私たちはレルムで思いっきり遊んで楽しんだあと、リアルの世界に戻っていった。
そして今日もまた、私たちふたりだけの秘密の時間が始まるのだ……。もしかしたら、ふたりは恋人同士になっちゃうかもしれない……
……と思ってた。でも……
次にレルムに行った時、ルナの隣には大人っぽくてかっこいい男の人がいた。
「紹介するね。私の彼氏のアンリ。」
ルナは照れくさそうにその人を私に紹介した。
「はじめまして。よろしくね。」アンリさんは優しく微笑んだ。
まさに、大人っぽいルナにピッタリの大人っぽい彼氏だ。
……美少年になった、私なんかよりも。
そのとき……
パリーン!という大きな音が遠くから響いた。北の空が真っ赤にそまった。そして、目にうつる何もかもがガラスのようにくだけ、私も、ルナも、アンリさんも、暗闇のなかに吸い込まれてしまった。
《不明なエラー。強制ログアウトします。》
*
目が覚めると、私はベッドの上で寝ていた。ここは、自分の部屋だ。あれは夢だったのかしら。
コンタクテを見ると、レルムでは《システム障害》というものが起こっていて、今は中に入れなくなっているらしい。
「リズ、ここになんて書いてあるか判る?」
ルナから《メール》が届いた。チャットじゃなくてなぜかメールなのが不思議だけど。
「わかんない。なんて書いてあるの?」
英語が沢山書いてあるだけなので、意味は私には全然わからなかった。でも、ルナは「わからなくても良いよ。リズにはちゃんと届くんだ。」と言って安心してくれた。
そして、その英語は、アンリさんに送ったメールが《宛先不明》で返ってきたという意味だと教えてくれた。レルムに入れなくなったときに、アンリさんは行方不明になってしまったのだ……。
「——でもリズとは通じてよかった。私突然世界から切り離されちゃったみたいな気がして……。」
ルナは悲しそうに言った。
わたしは、ルナのことをなぐさめてあげなくちゃと思ってつい、こう言ってしまった。
「ねえ、今度会おうよ!」
「えっ!?」
ルナがびっくりするのは当たり前だった。
自分で誘っておいてあれだけど、
会うって……どこで?
リアルで??
*つづく*
AIとともに小説を書いているとき、わたしは半分著者であり、半分読者である。Trinsama 7.3B V5がどの程度《野いちご風》に詳しいのかわたしも良くわからないし、そもそもケータイ小説と一口に言っても表現のスタイルはさまざまだろうからステレオタイプ化するのは無粋だと思うけれど、なんとなく《それっぽい》と思えるものがちゃんと完成したことが単純に面白かった。わたしが《面白かった》のは当然ながら、わたしが面白いようにその都度Trinsama 7.3B V5の提案を取捨選択したからだ。初期設定のみがあり、あらかじめ存在しなかった続きが《その場で》生成されていくこの新しいシステムが、既存の小説では成立しないタイプの没入感をこの物語世界にもたらしてくれている。
本来ならば、わたしは著者としてこの物語『べつの名前で呼んで』の《整合性》を取らねばならない。ルナの相手は元の通りクレイにすべきではないかとか、この流れだとミュウが登場しないので物語が停滞するのではないかとか、これはルナ達が子供の頃の回想ということなのかとか、読者に疑問や混乱を生じさせるポイントを全て洗い出して辻褄を合わせるのは存外容易でない。
でも、そんなこととは関係なく、《原作》を読んだことのない娘はこのストーリーを面白がってくれたようだ。ならば、それでいいのかもしれない——。
わたしはこの『野いちご味』の続きの執筆を、娘とTrinsama 7.3B V5に任せることに決めた。
《読者とAIとの共著》においては、物語世界は多様な《選択》を反映する形で分枝してゆく。その分枝は、それぞれに願う、それぞれの結末へと《読著者》ひとりひとりを導くようなものとなる。初期条件を定めた原作者は、これらの分枝の全てを制御する全能性を持たない《弱い神》として遍在する。
わたしはもともと、AIによる《補完と自律》のヴァリエーションとして、このような《読著者による分枝》のほか、自動筆記システムのようなものをイメージしていた。わたしがそのシステムを準備して、わたしの原作を読んでもらい、無限に続きを描いてもらう。わたしはそれらの中にわたしの想定しないものが現れたときに、庭の雑草のようにそれらを取り除くだけでよい。そのようにして保たれた《庭》の姿こそが、わたしの作品となると考えていた。
しかし、今わたしの目の前で起こっていることはそのような古典的なSFのシナリオに類似したことではない。わたしはまだそのような自動筆記システムをまだ作っていないのに、物語の《補完と自律》が始まっているようなのだ。わたしの知らないどこかで。
自動筆記システムの習作として、乱数詩を永遠に描き続けるスクリプトをGPT4に作ってもらった。詩として生成したい言葉のデータは、わたしが描いた小説の本文、その草稿、メモ類から初めに抽出した。そして、生成された詩から連想した言葉を追加したり、齟齬を感じる言葉を取り除いたりしていった。なによりもまず単純に、プログラムなどろくに書けないわたしが完成品のイメージをGPT4に指示しただけで、必要なスクリプトが瞬く間に出来上がったことに驚かされた。自分の言語感覚とボキャブラリーが許す限り、この乱数詩のための言葉の厳選は半永久的にできそうだけれど、きりがないので一旦諦めた。
スロット・マシンと戯れるギャンブラーみたいにその乱数詩の出来栄えに一喜一憂しながらわたしはこのスクリプトを実行し続けた。そして、その詩の中に、わたしの小説の登場人物の名前が出てきた。それは、わたしがこの詩のためのリストに追加した名前ではなかった。コパイロットの《続き》が面白かったのでわたしはそれをbタグで括って書き留めた。わたしはAIとの共著を続けているうちに、だんだん『あとは適当に察してくれないかな……』とか、『コパイロットならどう続けるかな……』といったふうに、自分の創意を一旦保留にしてそのリアクションを待つようになった。コパイロットの指摘は半分だけ当たっている。わたしはこの乱数詩のスクリプトが用いる言葉のリストに『べつの名前で呼んで』の登場人物の名前を追加していなかった。《形容詞+名詞》という組み合わせによる乱数詩の中に、イメージを限定する性質が強い《固有名詞》を入れることに違和感があったからだ。乱数詩の中でのそれら登場人物の名前が生み出す齟齬をテストしてから、わたしはそれらを消去し、コーヒーを淹れにキッチンへと降りた。
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GPT4にWebエンジニアを代行してもらうことができるようになって楽になった私は、つづいて、画像生成AIが小説の《コンセプト》を元に推測した様々な場面を並べてスライドショーを作ることにした。それは最終的には、スライドショーというよりはサブリミナル映像のようなスピード感でイメージを連続的に表示するものになった。NijijourneyV5をはじめとする画像生成AIは、学習元のイラストなどに《類似しすぎる》出力を行うことも多いうえ、誰がプロンプトを描いても比較的似たような結果の画面となるので、(推測された)挿絵のときと同様に、これらをわたしの作品の《正式な》ヴィジュアルイメージとすることはできないけれど、それでも、わたしの小説の世界観を視覚化するという実験の結果としては十二分のものであるし、これならばAIだけでなく一般の読者の方々にも有意ではないかと思う。そして何より、100枚以上あるストーリー・ボードを複雑に描画するスライドショーコンテンツが一晩で出来上がってしまったことは驚くべきことだった。
画像生成AIによる視覚イメージの補完についてはさらに、かれこれ10年前に湊が描いたドローイングをもとにしたImage2Imageによるキャラクター・デザインの習作へと展開していったが、GPT4によるWebエンジニアの代行と比べると、画像生成のプロセスは偶然の出来栄えに依存する要素がまだとても多い。より複雑なUIを用いたAIも出てきているけれど、GPUなど道具立ての整備がかなり大掛かりになってしまうので、今回のプロジェクトでは保留になっている。 画像生成AIも、「こんな絵を描いてほしい」という風に対話インターフェイスを用意してもらって、出力を随時確認しながら対話によって修正を繰り返すことで、イメージとのずれを解消していくようなことができるようになると、いよいよ本当に《正式な》ヴィジュアルイメージとすることもできるかもしれない。一体これからそのようなAIが生まれるまでに、どれだけの時間がかかるかわからないけれど。
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現状AIで可能なことについての試行錯誤がひと段落しつつあるので、わたしはむしろAIでなく一般の読者がこのサイトを偶然《発掘》したときに不都合がないように、CSSの整備やモバイル対応、また誤字の修正や字下げなどの細かい点の調整へと一旦移った。そのなかで数年ぶりに、小説の本文そのものと、それを執筆したときの湊の気持ちと向き合うことになり、当時の瑞々しい感覚とその記録をもっと大事に扱わねばならないと改めて感じた。様々なAIによる《物語世界の補完》は、それを大いに助けてくれている。
《AIの記憶》となり得るのは極めて例外的なケースを除けば《ウェブ上に存在する情報》だけであるから、《わたし》についてAIに問うということは即ち、わたしはウェブにおいてどのような人間として記憶されているか、を問うことである。この《エクリチュール化された自己》は《生身の自己》がどのようであるかということを参照する術を持たず、勝手に独り歩きする。AIの発達はこの《エクリチュール化された自己》の存在感を《生身の自己》を凌駕するほどに高めつつある。GPT4でウェブブラウジングの機能が試せるようになったので、今後はより詳細に作品について語れるようになることを期待している。
ベータ版の機能を用いてGPT4に、物語を《きちんと》読んでもらい、それを覚えていてもらうのは案外難しく、いろいろ試行錯誤したうえで一旦保留にした。その代わりに、《聴覚》的な補完へとプロジェクトは移行した。もともと、2017年の時点で合成音声(ボーカロイド)による挿入歌の制作などは行っているが、2023年の段階で扱える音声合成AIは、もはや《人間の声》と区別がつかないほどになっている。これを用いて、湊の小説を《朗読》してもらうことにした。コパイロットが推測して先に書いたけれど、だいたいその通りだ。2017年当時の日本語音声ライブラリを用いての台詞読み上げに関しては、イメージするものが作れずに挫折している。2023年の段階で可能な合成音声についても「《人間の声》と区別がつかない」かどうかについては聞く人の聴力などによると思うし、テキストをベタ打ちしただけだとやはりアクセントやイントネーションなどは人間的にならない。ただ、Voicevoxなどの新しいソフトウェアはそのあたりを後から1語ずつ細かく調整できるようになっており、生成後にLogicのFlexPitchでさらに追い込むと、もうパッと聴きでは《合成音声》には聞こえないと思う。2017年当時より多様化・高品質化した日本語音声のライブラリによって、登場人物全員のキャスティングも可能になったので、最終的にこれらの朗読音声は、存在しないアニメ映画のトレイラーのようなものになった。2017年時点の古いボーカロイドの音声データがDAW環境の移行によって再生できなかったので、劇伴のコーラス部分はNEUTRINOを用いて新たに録り直したが、この歌声シンセサイザーもまた、収録された生歌の品質にかなり接近していると思う。
この90秒間のサウンド・トレイラーに、90秒のフル・アニメーションを描写するのが当面の目標になるだろう。ここから先の画像生成は《それっぽい》だけでは不十分で、キャラクターが一貫した特徴を持続しながらなおかつ動画になっていないといけない。しかし、ここまでさまざまにAIの進化を体感してきたわたしは、やがてはそれも可能になるだろうと信じている。そして、その時には、わたしはもういないだろう。この頃どうしてか、自分の死を想像することが多くなった。もちろん、死ぬことは怖い。だが、死ぬことは、わたしの《エクリチュール化された自己》が《生身の自己》を凌駕することを阻む唯一の方法だとも思う。わたしは、《エクリチュール化された自己》が《生身の自己》を凌駕することを望んでいる。だから、わたしは死ぬことを望んでいる。わたしは、《エクリチュール化された自己》が《生身の自己》を凌駕することを望んでいる。だから、わたしは死ぬことを望んでいる。わたしは、《エクリチュール化された自己》が《生身の自己》を凌駕することを望んでいる。だから、わたしは死ぬことを望んでいる。わたしは、《エクリチュール化された自己》が《生身の自己》を凌駕することを望んでいる。だから、わたしは死ぬことを望んでいる。わたしは、《エクリチュール化された自己》が《生身の自己》を凌駕することを望んでいる。だから、わたしは死ぬことを望んでいる。わたしは、《エクリチュール化された自己》が《生身の自己》を凌駕することを望んでいる。だから、わたしは死ぬことを望んでいる。わたしは、《エクリ
2016年頃からHMDの性能がひと段階上がって、そのことによって再びVRコンテンツの開発に勢いが付いたらしい。わたしがそれに関心を持つようになったのは随分遅れて2018年の1月末だった。秋葉原のPC店でVIVEで動く『Rez』を少し遊ばせてもらって、確かに立体視のゲームが随分進化しているのがわかった。それから、家電店でごく簡単なVRゴーグルを購入し、iPhoneに対応しているVRコンテンツをいろいろ試してみて、少しずつ面白いことができるようになってきていることを実感した。なかでも特に、VTuberの台頭は、わたしも『べつの名前で呼んで』で描いてみた、VRによって人格を置き換える《代替世界》の入り口にいよいよ自分が立っていることを感じさせるとても重要な出来事として感じられた。
日々の義務に追われて過ごす私たちは、自らの生きる現実世界の《有りよう》を疑うことはほとんどない。しかし、一度立ち止まって、その様子を遠くから観察してみれば、私たちが依って立つものは思うほど盤石ではないことに途端に思い当たるだろう。人間の社会は常に軋んでいるし、制度はどう改めても不完全であり、知識は真理に遠く及ばず、その深淵は無限に続いているかのようだ。それでも、太陽はきょうも私たちを照らしてくれ、信じるに足る価値を幾許か授かり、傷や病もいつしか癒えていく。さしあたりその深淵を見ないことにしてしまえば、私たちは現実世界において不満なく生きることが出来ているように感じられる。
しかし、歴史を振り返ってみても、人類が現実《だけ》を直視して生きてきた時代は存在しない。伝説の時代の人々は、むしろ私たちより遥かに深いレベルで幻想と対峙していたと考えられるし、地図に空白が無くなり、科学の光が世界の隅々まで照らすようになってからの時代も、娯楽や宗教のレイヤーにおいて非現実の世界への希求は失われることがなかった。そしてあなたも子どもの頃は、信じがたいほど高い集中力で空想の世界を渡り歩いていたはずだ。
同様に、VRは単に立体視を面白がるための玩具では決して終わらないだろう。過去に多くのSFが描いて見せたような姿かどうかは判らないが、計算機と人体が融合することによって計算機的に創造される代替世界の扉を開く時が遠からずやってくるはずだ。私たちは、代替世界へ転移することによって、生まれながらにして何故か強いられているこの《現実》の軛から自由になることが果たして可能なのだろうか。そのとき代替世界とは、どのようなものとして成立し得るのだろうか。
《代替世界》のスタディをしていくにつれ、わたしは半ば衝動的に、堂々巡りになりがちな哲学的思索を脇に置いて、HTC VIVEよるVR構築環境をアトリヱに導入することを決めてしまった。当時はとにかく気が急いていたので、秋葉原で購入したタワーPCを手で持って電車に積んで帰るというずいぶん無茶なことをした。6月下旬の話だ。仕事と資格試験の勉強の合間にかれこれ4か月ほどの試行錯誤の末、Blenderでモデリングした《べつのわたし》をVIVEでフル・トラッキングさせ、Unityで構築した仮想空間上に配置した《鏡》に映し出すことが何とかできた。モデリングに関しても、リギングやトラッキングに関しても生半可なので、《彼女》の姿も動きもまだまだ未熟なものだったが、それでも《べつのわたし》の鏡像と初めて目が合ったその瞬間は、まるで魔法のような感動を与えてくれた。
2018年にはじめてUnityでVR空間を構築して以来、わたしは、VTuberとしてのわたしの《世界》や《夢》を様々にデザインすることを試みたが、その空間の中にある《すべて》をデザインできる自由度の高い開発環境を手にしたところで、限られた時間の中たった一人でそれらひとつひとつを作り上げ、統合することは現実的ではなかった。遠回りしたり脇道に逸れたりしがちではっきりした《成果》にたどり着かないわたしの長い準備活動をよそに、VTuberをめぐる社会環境は激変していった。それが金銭や名誉など社会的な《利益》をもたらすものであるということが明らかになったからだ。途端に参入者は激増し、気が付けば周囲には、わたしの苦手な《人集り》ができあがっていた。やがてSNSでは、自己を称揚するために他人を貶めるような言説が幅を利かせはじめてしまった。その喧騒に失望したわたしはHMDを捨て、《彼女》をリセットした。
わたしは、内在する《狂気》の発露としての《創意》をコントロールすることができない。そのために、わたしの創作はおおよそ社会と折り合いがつかないようなかたちで明滅する。そのことを肝に銘じたわたしはそれから、間接的な再利用手段のみを残して、自分の創意と社会との接点を切断した。