CALL ME BY ALIASべつの名前で呼んで [2013]

1







[ Lost ]





2

そして、
ただ《ことば》だけが、ふたりを繋いでいた—— 。



 青白い強化ガラスのテーブルに投影されたキャレットが、早春の快活な日射しをまとって静かに明滅を繰り返していた。

 「クレイ、ここになんて書いてあるか判る?」とルナから転送されてきたのは、旧式電子メールの送信エラー・メッセージだった。もちろん、ルナだってそれくらいは理解しているはずだったし、情報通信の知識なんて人並みのものしかないわたしにルナが求めているのは、専門用語テクニカルタームや数値の羅列を解読して送信エラーの《詳細》について意味ある助言をあげる、といった気の遠くなるようなことではなくて、単に、受信したメッセージが読めるか確認してあげる、というくらいの簡単なことだった。
 「——でもクレイとは通じてよかった。私突然世界から切り離されちゃったみたいな気がして……。」
 わたしはおまじないの仕草で"550 Invalid Recipient"というクエリを検索に立てて、ルナが一番望んでいないその意味をあらためておなかに据えてから、やはり望んでいない安易な励ましを慎重に切りとって「彼、IDごといなくなっちゃったみたいだね。」と、そこで起ったであろうことだけをタイプした。

 レルム王国での《わたしたち》は、架空の存在同士として通じ合うその場かぎりの関係だったから、IDを破棄されて行方が知れなくなるということは、わたしたちにとってはただそれだけで、死別するのと何も変わらない意味を持つ。なのに——
「最後のあいさつもできないまま、永遠のお別れなのね……。」
 ふたりの恋の幸福な思い出に花を手向けるような、綺麗なさよならができなかったのは、なぜなのだろう……。



 いままでのソーシャル・ネットワークでは、オンラインの《わたし》と現実の《わたし》はまったく同じ存在であることが求められたのに、レルムではそれがすっかり自由だった。それだけでなく、レルムにはそこで《転換》した自分こそがほんとうの自分であるかのような思想さえ生まれていた。居住地、性別、肌の色、障害の有無…、望まずに生まれ持たされた条件や格差と関係なく、望むとおりの《わたし》になることができる。そんな夢へむかって新しい世界がひろがっていくようだった。
 けれどあの日、わたしたちはレルムの空間系で起こった障害に巻き込まれてしまった。ルナの恋人だったアンリはそれ以来行方不明になり、落胆したルナとわたしは《べつの自分》になる夢をホログラフィの世界に委ねることをやめた。
——破損した仮想世界からログアウトするまでに、そんなふうな感じのことがあったと思う。そして、この曖昧な記憶のあとのほかは、醒めたあとの夢のように、何も思い出せなくなっていった。
 それでも、わたしとルナの接点だけは残った。わたしは《わたし》としてではなく《クレイ》という男の子として、素性の知れない《ルナ》という女の子と、こうして現実でも繋がっている。
 「もうアンリのことがほとんど思い出せなくなっているの。私の記憶から彼が消えてしまう……。」
 「思い出せなくなることと、記憶を失ってしまうことは違うと思う。僕らは自分で理解している以上にたくさんのことを記憶しているし、それは思い出の奥底に沈んで取り出せなくなってしまうことはあっても、消えてなくなってしまうことはないと信じているよ。」
「クレイは、消えたり、しないよね?」
 その《かつてレルムでルナと呼ばれていた誰か》は、自分が《実際に》どういう人物なのかについて知る手がかりになることを一切知らせなかった。《実在オリジナル》の人格が知られてしまえば、ルナという架空の人格はそれに上書きされて損なわれてしまう。その人は《自分自身》である以上に、ルナであることを望んでいた。
 だから、わたしも実在に関わることは何も伝えず、クレイとしてルナと対話することになっていった。まるでおばあちゃんの昔のような電子メール、プレインテキスト・メッセージを交換するだけのレトロな通信で。
打ち間違えた一人称を書きなおして、わたしはルナに約束した。
「僕は、君をおいて突然いなくなったりしないよ。」



 完成していないから、というのでまだ読ませてもらったことはないけれど、ルナはずっと物語を書いていて、その経過を時々知らせてくれた。《書きたい》という欲求からでも、《書かねばならない》という義務感からでもなく、《書かずにはいられない》という衝動がペンを執らせるのだという。
 「キャスト出演者に名前をつけてあげれば、それだけで世界は自転しはじめる。私はただ、そこに映された出来事を書き留めているだけ。すべて、神さまに委ねるしかないの。無理に書き換えようとしたり、焦って捻り出そうとしても、結局どうすることもできない。」
 3限の講堂でうっかり午睡の底に沈んでいたわたしの意識も、ルナの旺盛な創作意欲のおかげで、いまはもう、ぱちっと目醒めていた。
 「私の書いたキャストはきっと、私よりずっと完全なの。たくさんのひとの心のなかに棲んで、かれらを失望させることも傷つけることもなく、ただ爽やかな勇気だけを与えながら、永遠に存在しつづける。」
 「おはなしに生きるキャストたちを、書き手のルナが羨ましく思うなんて、不思議な感じだね。」
 「私が不完全な《からだ》を持ってこの世に生まれてしまったのは事実だからもう変えられないけれど、空想する力の広がりを限定する具体性なんて、本当はなんにもないほうがいい。そのほうがキャストたちに近くなれる。——実在するものは、神格として不完全で、弱い。」
 わたしは、ルナがどういう意味でそう言ったのか、はっきりとはわからなかったから、少し曖昧に応じた。
「でも僕も、リベラシオンについて聞いたことはある。」そして少し唐突に、切り返した。
「聖書のことではなくて?」
「Lから綴るほう。」
 渡り廊下に蔭差す木蓮の梢に、ホログラフィのツグミが描きかけのままフリーズしていた。



リベラシオン。

 革命的なテクノロジーが、《こころ》Mind《からだ》Skinから解放する。人格は、獣の記憶に堅く結びつけられた肢体を去り、神さまの意思により近づいてゆく——。
 観測不能な領域が多くて安全性が証明できないから、大抵のひとはまるでオカルトだと言って取り合わないし、そんな一足飛びに、遠い未来の科学がぽんと現れてしまうなんて有り得ることなのか、わたしにも解らなかった。
 それでも、《からだ》に恵まれず、再生医療でさえ救い得ない人達にとって、それは命を繋ぐ一縷の望みになった。
 看護実習中に小児病棟で知り合った男の子は、リベラシオンが成功したら、きっとわたしに会いに来ると言って笑顔で旅立った。けれど今も、再会の約束は果たされていない。《こころ》だけになった存在のことは、まだ誰も《科学的》には確かめたことがなかった。
 「表向き《からだ》は葬られ、当事者は死んだことにされるんだ。《からだ》そのものにもうひとつの意思があるとするならば、ひとのかたほうはそこで確かに死ぬわけだから、誰も不思議に思わない。」

その日、ルナからの返事は届かなかった。



 「自分でも驚くほど自然にペンが運んだときには、神さまの力に触れたような気がするの。でも奇跡みたいな追い風を感じられる瞬間は、大人になるにつれてだんだん失われてきていて、いまは年に何度かあればいいほう。」
 屋上庭園は晴れわたり、学園都市の遥かむこうまで見渡せた。この窓の数だけ、人の暮らしがある。雑沓のなかに神さまの姿を見失ってしまっても、なにも不思議ではなかった。
 「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。」(Jacob 4:4)
 「逆もまたしかり、なのかしら?」普段は慎重に単語を選んで返信してくるルナのはずなのに、きょうはまるでピンポンのようなラリーが続いていた。
「わからないけど、多分逆も成り立つんじゃないかな。」
「でも、私と世の中との繋がりが薄れていくほどには、神さまとの繋がりが深まってこない気がするの。」
「もしかして、僕からも敵対されていると感じることがある?」
「いいえ。でもクレイ以外の男の子はみんな、私の《からだ》に触れたがる。」
 聖句の重みも軽く弾き返すきょうのルナだったら、思慮の浅い勘ぐりも自然に聞き流してくれそうな気がして発した何気ないことばは、わたしの意図に反して、彼女のこころのずっと深いところに突き刺さったようだった。
 確かに、レルムで知り合って現実で会う誘いをかけてくる男の子は、ほとんどが《それ目的》のようにさえ思えた。そのつもりがない事に勘づかれて、玩具おもちゃのように放り捨てられるのは気味の悪い経験に違いない。
 話題を変えようとキーを探っているうちに、ルナのほうから素早く重ねてきた。
「クレイはそれをしないから、好き。
 あなたのことを、もっと深く知りたい……。」
——胸が、とくん、と波打った。



転移Übertragung
——来談者クライエントがかつて誰かに抱いていた感情を相談員 カウンセラーに向けること ——。
 「いやいや、この場合は《逆転移》なのかな。失恋した相手の傷心を癒してあげているうちに、あなたも相手のことが好きになって…
「!まっ!まだそこまではっきり言ってない…し…。」
日暮れがかった閲覧室に盛大にひっくり返してしまったわたしの「まっ!」が響きわたる。SILENCE静粛に の札を指差す司書教員の視線が痛い。
——それに、ルナが好きなのは《わたし》じゃなくて《クレイ》だし…。

 シノとは長いともだち付き合いだから、きっと親身に聴いてくれるはずだけど、それ以上は何も話せなかった。レルムでのことを現実で語ったら、どこからルナのプライバシーを侵害することになるかわからない。だって、万一のことをいえば、実はシノがルナの実在だった、なんてことだってありうるのだから。
「顔、真っ赤だよぉ…。」
 面白がるつもり満々のシノがわたしの顔を手鏡に映してみせる。わたしも真似してシノの顔をコンタクテ端末のカメラに写してみせる。鮮やかな夕焼け空の色が辺り一面に照り返しているのだから、誰の顔だって真っ赤には違いなかった。
 シノが、さっきの司書の仕草で、PICTURES撮影 PROHIBITED禁止の札を指差す。わたしは慌ててカメラをシャットダウンした。
「でもでも、顔も見たことないひとを好きになるとかどんな精神状態なのか、あたし経験ないからさっぱり解んないなぁ。」
「嘘。シノってばいつも小説に出てくるお嬢さまのはなしばっかりしてるくせに…。白百合さまだっけ、あの——
「!やぁぁぁめぇぇ——!」
 両手を頬にあててうつむくシノの顔は、さっきファインダ越しに見たそれよりもじゅっと赤熱していた。



——男の子はみんな、私の《からだ》に触れたがる——
 バスタブに浸かってぼんやりしていたら、ルナのことばがまた浮かんできた。そして気づけば、頭の中はルナの名前でいっぱいになっていた。いつもこんな調子でいるのだから、《わたし》がルナに恋しちゃったみたいだとシノが思ったとしても、べつに不思議ではなかった。
 わたしは眼をとじて、指先を太もものあたりに静かに伝わらせながら、
「クレイは…ルナに触れてみたい?」と、尋ねてみた。
 ルナの前で毎日のようにクレイを演じつづけているわたしの中には、ルナが思い描く男の子のクレイが最初からいたような感覚さえ芽生えていた。名乗ることによって知らぬまに暗示の種を蒔いていたとでもいうように。それでも——
「僕は…」
——わたしは…
……《そういう気持ち》なんて湧いて来そうもなかった。
 瞼を上げれば、男の子を演じるのには具合の悪いわたしのかたちがお湯の中に揺らめいている。男の子たちが色気を覚える女の子のまるいかたち。でもどうして、まわりの女の子と比べてたっぷりふくらみがある、というだけのものに、みんなあんなに《反応》するのだろう……。
 急にそわそわしてきて、我慢できなくなって、とぽん、と頭までバスタブに潜ってしまった。
——揚がったとき、男の子のからだになっていたらいいのに……。

 レルムには、《転換》の欲求を存分に満たしてくれる表現力があった。そのつもりさえあれば、まるで着せ替えごっこでもするみたいに簡単に、まったく違う容姿を選択できる。自分がお人形遊びをしているのにすぎないことを忘れてしまうくらい、そのアバターは精巧につくりあげられる。ましてや、お人形に魂が宿ると信じて疑わないひとならば、夢中にならないわけがない。
 けれどルナはあれから、レルムで表現できる一切のヴァーチャル・リアリティを受け入れず、ことばと空想の世界だけをかたくなに守った。
 「ホログラフィがどんなに精巧にできていても、それでレルムの本当の姿を表すことはできないと思うの。本当のレルムは、もっとずっと——
——語り得ない世界。
 ぷはっ、と子供のように威勢良く浮かび揚がってみたけれど、もちろん、わたしのからだはひとつも《転換》なんてしていなかった。
——ルナの心の中にいるわたしは、どんなに綺麗な男の子なのだろう…。
 髪を梳かしているうちに、お夕飯の支度をしているキッチンのほうからおさかなを焼く香ばしい匂いが漂ってきて、シャボンの香りと入れ替わってしまった。語り得ないものを語ろうとする堂々巡りの思索も、そこで壊れて消えた。
 このごろ不思議と、おさかなを食べるのがつらい。

3

 ロレット・ジルーの食料雑貨店グローサリーには目一杯の緊張感が漂っている。ヴィンテージ・ワインからキャンディひとつにいたるまで、凡庸なものは決して棚に置くことを認めないというその厳格さは、明るく開放感のある空間や爽やかな店員さんの笑顔がどうぞお気軽に、と迎えてくれるとしても、やっぱり普段着のわたしの足を遠ざけてしまう。
 けれど、きょうはお洋服もちゃんとしてきたし、午前中のうちにずいぶん嵩は減ってしまったけれど、お財布だっていつもより恰幅がいい。春休みが終わってしまう焦りも手伝って、うんと欲張っていっぱいショッパーを提げていたい気分だった。
 E7区の並木通りに新しくできたお店は、オープンしたての頃はその傍を通る気にもならないほどのひどい混雑だったけれど、今ではすっかり落ち着いて、お客さんは山の手の住人ばかりになっていた。ときどき見かける女の子はみんな大使館近くにあるインターナショナル・スクールの生徒らしくて、中学の制服を着た子でさえ、わたしよりずっと大人びて見えた。
 生まれの違いは変えられないけれど、こうして彼女たちの住む世界と距離を詰めることはできる。この背筋がしゃんとする感じを求めて、ぴんと張りつめたこの街の空気に浸りに来るのかもしれない。
 …といっても、勇んで年代物のワインを買って帰るわけでは、もちろんないのだけれど……。
 郊外のメガ・マーケットと比べてしまえばさほど広い敷地も高い天井もない店内は、それだけにコーナー毎の陳列も装飾もぎゅっと凝縮されていて圧倒されそうになる。他のお店ではほとんどお目にかからない食料品ばかりが並んでいる様子は、それだけでわくわくする。わたしは、ふしぎなシルエットの瓶に入ったかわいい鉱水を手にとって、ちいさなカートに入れた。コンタクテが示した値段はやっぱりちょっと目を見張るものだったけれど、きょうはまだ安心できた。
 鮮やかな果物の棚をくるっとまわると、お菓子の並べてあるコーナーが目に入り、ちょっと浮き足立つ。どれもこれもお持ち帰りしたいくらい素敵な棚の眺めにうっとりしながら進んでいくと、そのなかのひとつが確かにわたしの視線をつかまえた。——キラキラ輝く色とりどりの宝石のようなコンフィズリー・バスケット。わたしの目あて。
 鉱水の瓶を倒して怪我させないよう白いバスケットを大切にカートにしまうと、そのまま店を出るのが惜しくて、フロアの奥へまわった。サラダひと皿にしてもどこまでも手の込んだものばかり並ぶお惣菜売り場や、いろいろな原産地のラベルが提がった珍しい香辛料の棚をくぐり抜けると、そろそろ店内を一周する。
 と、さっきのお菓子売り場のあたりで、若い——はっとするほど綺麗な——女のひとが、わたしと同じコンフィズリーを手にとっているのが見えた。そして、傍にいた彼女の母親らしいひとが、きつい口調でこう諭すのを、わたしはうっかり聴いてしまった。
 「ミュウ…。今更そんなの有り難がるのよしなさいよ。頭弱そうな子がそのバスケット得意そうに持ち歩いてるの、最近ずいぶん見かけるもの。」
——すっと、全身から力が抜けた。不意の段差に足をとられたみたいに。
 わたしは間接的にぶつけられた意地悪に押し倒されるままに、気がつくとカートから棚にコンフィズリーを戻していた。やっと理性が追いついて、ふたりの会話なんて聴こえなかったふうを取り繕ってその場を離れたけれど、鉱水ひと瓶だけカートに入れてつかつかとレジに向かうわたしの姿がふたりの目に自然に映ったはずはなかった。
 息苦しさに追い立てられるようにお店を出ると、ミュウと呼ばれたさっきの女のひとが歩道の木陰にひとり立っていた。わたしに気づくと哀しそうな視線をこちらへ向けたけれど、わたしはあたまから何も見なかったように歩道橋の階段をちがう方向にのぼってしまった。母親の車のクラクションに急かされて、そのひとが路肩のほうへゆっくりと戻っていくのが見えた。
 Mからはじまる知らない名前の白い車は、細い影を助手席におさめると滑るように並木のむこうへ消えていった。



「ねぇあたし見たよ。」
「な、にを?」察しはついたのに、あんまり唐突に訊かれてわたしは思わず、上擦った声で訊き返してしまった。
「またまたぁ。お隠しになっても無駄ですわっ。」あんまり素敵な春の陽気がそうさせるのか、へんてこなお嬢さまことばのシノに、あたまをぽかぽか叩かれる。「って、みんなの前で喋っちゃっていいの?ぁあのねぇえ!」
「——だめ!ぜったい!」
「な、にが?」シノは本当にわたしのモノマネが上手。でも今は感心してる場合じゃなかった。クラス中の女の子の視線がわたしに注がれている——。
 新学期はじめの日。わたしはロレット・ジルーで偶然出会った女のひと、ミュウという名前のそのひとと再会することになった。…同じ制服に身を包んで。



 始業式の礼拝堂。転入生として祭壇へあがったミュウ先輩は、簡素で均質な身なりを強いられるこの女学園のいまどき珍しいほどに厳格な規則にすべて従った姿でありながら、生まれと育ちの根本的な違いを感じさせずにはいられない別格の凛々しさを具えていた。
 けれどそれが、始業式を新しいお姫さまの戴冠の儀式に変えてしまうほどの熱狂を学園全体に生み出していたということに気付くには、そのときのわたしはあんまりぼんやりしすぎていた。
 お昼休み、階段の踊り場で不意に呼び止められたとき、ミュウ先輩はきのう並木通りで見せたのと同じ、哀しそうな目をしていた。
 「ねぇきのう、会ったよね?」息を切らして階段を駆け上がってきた先輩の声は、すこし震えていた。
 わたしはその問いかけに応じているようでいないような曖昧な感じで、軽く会釈することしかできなかった。それからしばらく無言のまま、ふたり並んで歩いた。
 人通りのまばらなC棟の中庭へ出てから、先輩は声をひそめてこう切り出した。
「カバンの中、覗いてみて。」
 戸惑うわたしをよそに、先輩はうって変わっていたずらっ子の微笑を浮かべている。おそるおそる先輩のカバンの中を覗いてみると——そこにはロレット・ジルーのコンフィズリーがあった。
「えっ、ですけど、お母さまに止められてらしたんじゃ…。」
——あっ。と思った時にはもう遅かった。
「やっぱり——。聴いてしまっていたのね。」
 いともあっさりと、わたしの《何もなかったふり》はほどかれてしまった。これ以上嘘をつき通しても、もう何も取り繕えない。わたしは、あのときの気持ちをそのままミュウ先輩に差し出すことにした。
「なんだか自分のことを言われてるみたいに、聴こえて。」
「嫌なこと聴いて、傷ついたよね。」先輩はそう言いながら、バスケットの封を切った。
「——あの。校内でお菓子を開けたりして、先生や風紀委員にみつかったらたいへんです。」
「この学園には、そんなルールまであるの?」
 そんなルールといっても、これはほかのと違ってわりと常識的なことのはずだから、わたしのほうが不思議な気持ちになった。ミュウ先輩はどちらのお国からいらしたのだろう……。
「じゃぁ、お弁当を先にしましょう。ごはんと一緒に食べてたら誰も気付かないよきっと。ふふふ。」
 と、木蔭のちいさなベンチに腰掛けた先輩に促されて、わたしも隣に駈け寄った。若葉を透きとおって形作られる柔らかな光の斑点が清々しい。短めのお祈りを捧げてから、ふたりで膝の上にお弁当箱を並べた。
 ミュウ先輩のお弁当は、平凡なわたしのそれと違って、いろいろ工夫が凝らしてあるようだった。といっても、それは面白く飾りつけされているとか、とびきり豪華なおかずが並んでいるということではなくて、食べてはいけないものがとても慎重に取り除かれているように見えた。それをさらに選り分けるようにしながら、先輩はこう言った。
「ねえ、おさかな食べられる?」
「…はい。」わたしは何となくそう返した。好きか、と訊かれたのなら答えは逆だったけれど、食べるべきか、を訊かれたのならその通りだった。
 先輩から引き受けたマリネはとても丁寧におさかなのクセが取り除かれていて、わたしは何も苦しまずに食べられた。これでも受け付けないなんて、先輩はよっぽどおさかなが怖いのかもしれない。
 お弁当を食べ終えてから、わたしが広げていたナフキンの上に、ミュウ先輩がコンフィズリーを何粒か見繕って並べてくれた。そのうちのひとつは、いつのまにか先輩がモグモグしている。
——神さま、どうかお赦し下さい。
 お祈りを重ねつつちょっと辺りを見回して、誰もいないことを確かめてから、ひと粒口へ放った。
「これで共犯だね。」
「内緒に、してくださいね。」

「けれど、とても驚きました。まさかうちの学園で会うなんて思ってもみませんでしたから。」
「うん、親はE7区のインターナショナル・スクールに入れるつもりだったみたいだけど、無理言ってふつうのとこに入ることにしたの。」
「ふつう、でしょうか…。」確かに、都心のインターナショナル・スクールと比べれば、郊外にほど近いミッション・スクールなんて、わりとふつうに見えるのかもしれない。
「この学園は時間の流れがゆったりしてて、とても楽にできるよ。生まれが特別な子ばかり集めて親の見栄のために競い合わされるのなんて、息苦しいばっかりでちっとも楽しくないもの。」
 いままで街で見かけてきた、と思っていた《特別な子》たちの満たされた笑顔が、わたしの中でなにかべつのものに変わっていくような気がした。
「これ、いくらしたと思う?」
 不意に、ミュウ先輩はカバンからストールを取り出しながらそう言った。そのペイズリーのストールには見覚えがあった。
「あ、それこの間わたしも欲しいなって思って」——値段が高くて手が届かなかったものだった。
「9割引き。」
「すごい!お買いものじょうずですね。」
「そうじゃないの。ここを良くみて。」と先輩はストールを近づけてみせてくれた。寄り添って目を凝らしてみると、細い指先が示すところには——遠目にはわからないくらいの、ちいさな傷があった。
「わかるかな?」
「……?」
「このくらいのことで——、価値なんてまるで無くなってしまうんだよ。」
うつむいたミュウ先輩の瞳は、滲んでいた。



——私が不完全な《からだ》を持ってこの世に生まれてしまったのは事実——
 ふっと、ルナのことばが思い浮かんだ。そういえばここ幾日か、ルナと話をしていなかった。「好き」と言い合う仲になってからは、いつも「好き」と言いつづけていてくれないと不安になって、わたしたちの対話は休みなく続いてきた。それがある時からしばらく途切れていたのに、わたしはちっとも気にかけていなかった。
 そして、わたしの空想のなかでおぼろげなかたちをしていたルナのイメージは、今はもうはっきりと、ミュウ先輩の姿をしていた。
 何かを信じるための手がかりがどこにもなければ、人は信じたいことを、信じたいようにしか、信じることができない。そのことをわたしは思い知った。
 どう疑いをかけて消し去ろうとしても、わたしの中では、ミュウ先輩がルナとしてわたしに語りかけているという仮説が、まるで事実のようになっていった。
「——で、どうなの?それから。」シノに詰め寄られて、わたしは我に返った。いつの間にかわたしの席は、クラスの女の子たちにまで取り囲まれていた。
「どうって、それっきり。」
「——。」
「……。」
「——ご冗談でしょう?」
 実際、ミュウ先輩とはそれっきりだった。
 あれから幾度となく、また先輩と偶然出会う瞬間のことを夢みたけれど、とうとう奇跡は起らなかった。どちらからも会いにいかなければ、この広い学園内で学年の違うふたりがまったく偶然に顔を合わせる機会はほとんどない。このままミュウ先輩はわたしのことなんて思い出すこともなくなるのだろう。あのときだって、わたしは名前さえ尋ねられなかったのだから。
 それでも、ミュウ先輩の話題が女の子たちの間で途切れることはなかった。先輩が《ふつうの女の子のつもり》でいても、この学園では、些細なことで群を抜いて目立ってしまう。先輩の隣をめぐる椅子取りゲームのようなその空気のなかに、わたしはどうしても割って入っていく気になれなかった。だって——
——わたしには、ルナがいるから…。
…でも、そう思ってしまっていいのだろうか。
《わたし》と《クレイ》と《ルナ》と《ミュウ先輩》。誰が、だれを想っているのか、だんだんわからなくなってきて、もやもやしたものを取り払いたくて、いつしか、わたしはこう呟いていた——
「わたしがルナに会いたい、と言ったら、ルナは会ってくれるのかな…。」
「:::: ::::」
そのとき、胸ポケットから呼鈴が響いた。送信元は——ルナだった。
 しばらくぶりに見るルナの文面は隅々までいつもどおりで、わたしたちの対話は、この幾日かの空白がなかったみたいに、すぐに元通りになっていきそうだった。
 伝えなければならない。決意が鈍らないうちに。
「こんど、僕と会ってくれませんか?
 レルムを離れ、地上に降り立って。」

4

 髪を切ってもらったら、とってもかわいくできた。普段だったらとても嬉しいことなのに、きょうは悩ましかった。
 美容師さんはわたしの制服姿を見て「男の子っぽくしてください」という注文にとても柔軟に応えてくれたのだけれど、学園祭で仮装をすることになって、とか、今トランスジェンダーっぽいファッションが流行ってると聞いて、とか、なんのかのと嘘をついて、もっと男の子らしい髪型にしてもらうべきだったかもしれない。
「でも、極端なショートヘアにしたら、こんどは校則にひっかかるかなぁ…。」
——ホログラフィのクレイは、どんな髪型をしていただろう。そんな身近な事も、もう思い出せなかった。
 《記憶を失う》というとまるで怪我か病気か、はたまた魔法の仕業のようだけれど、考えてみたら、ついさっきのことだってけっこう覚えていない。下校途中に寄った美容室でわたしが払ったお金はいくらだったろうか、とか、きょう担当してくれた美容師さんは何色の服を着ていたろうか、とか、思い出せそうなのに思い出せないできごとは意外にいろいろ数え上げられる。レルムでの事も、そんなふつうの《過去》のひとつになってしまったのだと、次第に思えるようになってきた。
 断られて当然のはずだったのに、ルナはわたしの無茶な誘いを思いがけずあっさり聞き入れてくれた。ただし、それはふたりが《オリジナル》同士で会うことを意味してはいなかった。実在に関することは相変わらず一切伝えないまま、ルナはルナのままでレルムから降りてくるつもりでいる。お迎えするわたしだけ、女の子の姿で現れるわけにはいかなかった。
「ルナのオリジナルも、なにか《変装》をしてやってくるのかな……。」
 その姿——。わたしはやっぱり、ミュウ先輩のことしか思い浮かべられなかった。けれど、ほかの誰かが現れる可能性のほうがもちろんずっと高い。本当はもっと心配しないといけないことが山ほどあるはずだった。なのに、わたしは会う約束が決まってからというもの、ずっと浮ついた気持ちが止まなくて、ぱたぱたと意味も無く右往左往していた。わたしの手を引いて、早足のクレイが先をゆく——



 待ちあわせ場所ベルジェはわたしが精一杯調べて決めた。港を見おろす小高い丘の上にある、小さな喫茶店。年じゅう観光客で賑っている中心部から少し離れたところにこっそりと立っていて、「ロケーションが良いだけではない店を探すのが難しいエリア」と手厳しいカフェ批評の情報が多いこの界隈でも、わりと悪口を言われることが少ないような気がする真面目なお店。ブロガーが得意げに語る繊細な味わいの差なんて、わたしにはあまり良くわからないけれど、クレイならばきっとよく知っているのだと、とにかく自分に暗示をかけることにした。
 坂沿いはずっと庭園になっていて、日曜画家たちがマリーナや洋館を水彩のカンヴァスに集めている。邪魔しないようにその間をすり抜けていくと、くすんだ緑の屋根が見えてきた。なんだかもう、すれ違う人がみんなルナに見えてきてしまう。まだお店のドアを開いてもいないのに、煎じた薬草が身体じゅうを巡っているような気分だった。
「おひとりさまですか?」
「……いえ、待ち合わせで。」
促されるままに、ひとり窓辺の席についた。
 椅子に腰掛けて遠い岬を眺めていたら、ちょっと気が楽になってきた。よい日和のおかげで航路はとても賑やかで、いつまで見ていてもちっとも飽きない。ルナにご馳走できるくらいはゆとりを持たせたお財布のほかにも、プルーストの抄訳を1冊バッグに入れてきていたけれど、栞紐を解く気にもならなくて、テーブルの上に置いたきりだった。露をまとった冷水のグラスが、辺りの風景と一緒に、それをたくさんの鏡像に分解していた。



 ランチタイムが終わって、お客さんの出入りが頻繁になってきた。真鍮のドアベルが響くたびに、ぴくっと入り口のほうを見遣ってしまう。いよいよ、約束の時間が近づいてきた。すっかり氷が溶けて嵩の増したグラスの水をひと口含んでから、分厚い文庫本のページをめくってみたけれど、視線が行間を滑っていくばかりで、お話なんてちっとも読み取れなくなっていた。
 ルナをがっかりさせたくなくて、わたしはわたしなりに頑張って綺麗な男の子を装っているつもりだったけれど、まわりのお客さんのほうがずっと落ち着いていて、この風景に自然に馴染んでいた。理想的なクレイの像が明らかになっていくにつれ、それが《わたし》から遠くかけ離れているという現実も、目の前に突きつけられてきた。
 こんな事になるくらいなら、《架空の人格》とは関係なく、わたしがどんな人間であっても、相手がどんな人間であっても、それをそっくり受け入れて実在同士の関係を築いたほうが、かえって素直にものごとが運ぶのではないかしら——。
——そうしていつしか、わたしは視界にミュウ先輩の姿を求めていた。
 仕掛け時計のメロディが店内にゆっくり鳴り渡った。針の先は、待ち合わせの時刻から2時間も先を指していた。そしてルナは、とうとう現れなかった。
 わたしはあとどのくらい、このまま待っていたらいいのだろう。もしかすると、ルナはここへ来て、自分のイメージする男の子が見当たらなかったから、そのまま店を出てしまったのかもしれない。そう思うとなんだか寂しくなってきた。でも——
「お店に着いたら、ルナから連絡を貰うはずだったんだ……。」
 はっとして、胸ポケットを探ってみて、やっと気付いた。わたしはよりによって、コンタクテを忘れてきてしまったのだ。
 どうしよう……。わたしから誘っておいて、店に着いたきりルナを待ちぼうけにさせてしまったかもしれない。けれど、今から地下鉄メトロを乗り継いで家までコンタクテを取りに戻っていたら、日が暮れてしまう……。
 潤んだ目のまま顔を上げたら、そこにはさっきの、ウェイターの男の子がいた。
「まだいらっしゃいませんか?お待ち合わせの方。」
「いえ、あの…。」
——この場面を、いったいどう説明できるというのだろう。
 ところが、わたしが吃っているうちに、彼は奥のウェイトレスに目配せしてから、穏和な調子でこう続けた。「女性の方かと思って、気が付かなくて大変申し訳ありませんでした。——クレイ様でいらっしゃいますか?」
——どうして、その名前を?
わたしは、辛うじてコクリと頷くのが精一杯だった。
「ルナ様からお預かりしているものがございますので、お持ちしますね。」
彼はそう言うと、小さな花束を抱えてきた。
白いユリの花束には、手紙が結ばれていた。



「親愛なるクレイ——」
 しばらくぶりのメッセージで急に会おうと言われて最初はとても驚いたけれど、その変化がとても嬉しかったこと。この待ち合わせ場所をとても気に入ったこと。物語を書くのをお休みしていること。そして、自分がクレイをどれだけ好きかということ……。《実在》と《架空の人格》の関係に触れることもなく、暗号のような言い回しもなく、ほんとうにこの店で席を共にしながらクレイと語り合っているかのように、ルナの文章は綴られていた。7枚の便箋には、最後まで特別なことは何も書かれていなかったけれど、それは確かに、直筆の手紙だった。紙の上を流れるインクの軌跡に、わたしはルナの体温を感じた。

 最後の便箋には、結びのことばのあとに、次に会う日取りと場所が記されていた。

 わたしが手紙をポケットにしまったのを見計らって、ウェイターが少し心配そうに様子を伺いにきた。花束は差出人の住所も書かれずにポストに投函されていた、というのだから、店員にしてみれば不審物と見なしても構わないものだった。格別にわたし達を気遣ってくれたベルジェのみなさんに感謝しつつ、わたしはやっとメニューの冊子を手にとることが出来た。

「砂糖とミルクはお付けしますか?」
「はい。——あ、結構です……。」
 ほんとうは砂糖とミルクだけでなくて、てんこ盛りのパンケーキプレートも頼みたいくらい、身体が甘いものを求めていたけれど、クレイとルナの語るテーブルの上に置くにはあんまり不釣り合いな見た目だったから、なくなく我慢した。
 空っぽになったお腹に深煎りのブラック・コーヒーが、ことのほか滲みた。

——お返事を、書いて渡さなくちゃ。
 帰り道、ひとり後ろ手に組んで細い階段をゆっくりと降りていたら、なんだかルナと手を繋いで歩いているような気がした。
 目の前にはどこまでも、いつもと違う景色が続いていた。

5

 それからは、手紙の交換それ自体に《待ちあわせ》の機会が結びついた。そしてそれきり、わたしたちは電子的な方法で語り合わなくなった。光の速さで交わす沢山のテキストのかわりに、互いを想って天を仰ぐ時間の積み重なりが、わたしたちの架空の世界を切りひらいていった。
 手紙を受けとったほうは、そこに記されている待ちあわせの日が来ないうちに、相手が決めた場所を訪れて返事を置いてくる。そのくり返しで、わたしたちは実在オリジナルどうしが出会ってしまうことを避けながら、ほんとうにいろいろな場所へ出かけていった。静かなところや見晴らしの良いところを、ふたりとも特に好んだ。恋人同士が多く集まりそうな映画館や商店街のような場所でも、できるだけ他に誰もいないところを選んだ。
 こんな場所でどうしたら手紙なんて受けとれるのだろう、と途方に暮れることもずいぶんあった。けれどそのたびに、ときに親切なひとの力添えで、またときに偶然に助けられて、わたしたちの文通は途切れることなく続いていった。
 クレイをたずねて地上を訪れるようになって以来、ルナは衒学的な語らいを避けるようになった。かつてのルナは、仮想空間に幻滅してそれを拒絶するようになってからも、レルムの生み出した思想には共鳴しつづけていたはずだった。
 それに《なりきっている》限り、そこにはべつの人格が確かに存在すると見なす、という仮想空間のルールはより急進化して、理由なく先天的な条件を強いられて生きなければならない現実の自己のほうを非人道的な状態と定義するようになった。実在において《からだ》がもつ獣性は本質的に高潔であるはずの精神を俗物的な欲望に束縛し、人間の罪、闘争と破壊の歴史の根源となっている。その混沌から離脱し、宗教的な恍惚のみを至上のものとする——。それが、レルムをまるで神さまの国のように崇めるひとたちの、ものごとの捉え方だった。
 けれど今のルナは、自分の《からだ》を敵視しなかった。砂浜の肌触りや草の匂い、鳥の歌声を愉しんだと、まるでそれに初めて触れたかのように、そしてもう二度とそれに触れられないかのように、熱心に手紙に記した。
 そしてルナはいつも自然に、クレイの素敵なところを伝えてくれた。そんなルナをわたしが褒めようとしても、どうしてもぶっきらぼうなことば遣いになってしまったけれど、ともかくルナをルナそのひととして見るように、いつも心がけた。わたしは確かに、この架空の恋を大切に守りたいと感じていた。



 それを手紙に綴っていたころは、そのまま永遠に続きそうな気がしていた夏の暑さもいつのまにか薄れて、やがて季節は秋になった。
 学校も2学期がはじまって、わたしは旅行になってしまうような遠い場所を待ちあわせに選びにくくなった。ルナもそれにあわせて、いくつかの《お気に入り》以外の場所をあまり選ばないようにしてくれたようだった。
 そのころから、ルナから貰う手紙の枚数は、だんだん減ってきた。それがとうとう1枚きりになった次の待ちあわせ場所でわたしが見つけたのは、ルナの名前が記されただけの、白紙の便箋だった。
封筒からころりと、ちいさな樫の実が落ちた。
 ルナの手紙は、言葉数が少なくなっていっても、気持ちを伝えようとする力の強さは変わらないままだった。むしろかえって、ひと言ごとの重みは増していくようにさえ思えた。だからわたしは今まで、沢山の返事を書き続けることができた。ドングリのことだけだって、話したいことはいっぱいあった。
 けれどその手紙には、次の待ちあわせ場所は記されていなかった。
「これでさよならなんて、いやだよ……。」
 樫の実ひとつ握りしめて、わたしはずっと雲をみていた。



 夕方、家に着くと、置いていったコンタクテに14もの不在通知が入っていた。それは、すべてシノからのものだった。
「んもー。ぜんぜん繋がらないから心配したよー。」
 何週間かに1通ずつしか交わせなかったルナとの文通とはまるで違うシノの時間感覚に、なんだか可笑しくなってしまった。
「ごめんね、何かあったの?」
「いやほら、あしたAACのテストがあるでしょ?」
なあんだ、と思った。シノはわたしのノートを写させてほしいのだ。
 学園は変なところでテクノロジーの採り入れに慎重な場所だった。代替コミュニケーションAACの授業では、障害のあるひとと意思疎通を図るためにいろいろと新しいテクノロジーを駆使するのに、わたしたちは相変わらず、紙にシャープペンシルで授業のノートを取っていた。たぶん、今時こんなことをしている学校は、もう数えるくらいしかないと思う。といっても、手で書く機会が少ないひとたちは、子供も大人も字の書き方がわからなくなったりするらしいから、わたしにとってこのアナクロな校則は、ルナとの文通に確かに役立っていた。
 わたしはコンタクテのカメラの前でパラパラとノートをめくってあげた。
「んもー。ノートなんかMMで取らせろっつーのー。」そもそも授業にちゃんと出てなかったのがいけないのなんてすっかり棚上げにして、シノはわたしのノートから『発達障害のあるこどもと向き合うときの姿勢』のところをテキパキとスキャンしていった。あしたの学校帰りに甘いものを何かおごってくれる約束をして、シノはコンタクテを切った。
「シノも、『わすれものをしやすい子』のところをよく読んでくれるといいんだけど……。」
「叱責しない」「わかりやすくする」「よいところを見つけて褒める」……。『脳機能の不具合によって日常生活に障害があるこどもに必要な配慮』とテキストに書かれていたものはすべて、多かれ少なかれどんなひとにも役立つ配慮のように感じた。たぶん、脳機能にかすり傷ひとつなく、あらゆる行動が完璧なひとなんていないのだから、どんな相手にも、どんな場面にも、そして自分自身にも、何かしら《コミュニケーションに障害がある》と考えてみるのは、とても前向きなことだと思う。
「落ち着いて、考えうる最善の手段をきちんと選ぶこと——。」



 久しぶりに開いてみたルナとのダイアログは、履歴が5ヶ月前で止まったままになっていた。わたしはルナに、ドングリのお礼を書いて送った。
その返事は、次の日の晩に無事届いた。
「紙の手紙でするのと同じような書き方でメールが届いたから、まるで田舎のおばあちゃんが都会でひとり暮らす孫に宛てたみたいで、ちょっとおかしかったよ。」
「えへへ……。」
 ルナとの繋がりが途切れなかったかわりに、またコンタクテだけを通じて話す関係に戻ってしまうのは、それでも少し寂しかった。だからわたしは、次の《待ちあわせ》の話をせずにはいられなかった。
「湾岸の観覧車の話、聴いた?」
「ええ。もうじき取り壊されてしまうんだってね。」
「ルナ、ずっと乗ってみたいって言ってたよね。乗れなくなってしまわないうちに、一緒に行こうよ。」
「ううん。もういいの。地下鉄メトロに乗るの苦手だし。」
「このあいだリニアが繋がって、遠回りしなくてもよくなったんだよ。」
「ううん。違うの。ごめんね。」
 ルナの変化を察したら、もう自分勝手な解決策を重ねるべきではなかった。けれど、そのかわりにどんなことばを返そうか、すぐには決められなかった。そのままコンタクテとぼんやり向き合っていたら、いつのまにかわたしは、眠気に足を掬われてしまっていた。
——次に気付いたときは、もう明け方になっていた。慌ててコンタクテを見遣ると、ルナからのメッセージがもう1通、重ねて届いていた。

私は
私が知りえた世界だけが
世界の全てだとは思わない。
軛を断ち切って
もっと遠くへ行く。
そのとき、クレイが隣にいてくれたらと思う。
でも、それを強いることはできない。



『——今から、10数え下ろします。』
10
それから3日も経っていたのに、わたしはルナに返答できないでいた。
9
ルナは《遠く》へ行く。そしてクレイに《隣にいて》という。
8
《ルナと一緒に行く》ということの意味はわかっていた。
7
それは《リベラシオンの処方を受ける》ということ。
6
《わたし》の肢体から《クレイ》を解放すること。
5
これからも、ルナには幸せでいてほしい。
4
わたしにとって、クレイは理想の存在。
3
ならば、クレイはルナと行くべき?
2
そのとき《わたし》はどうなる?
1

 ホールの照明がわたしを3つの方向から照らし、それぞれの影をつくっていた。 3つの影は翼をたたむようにゆっくりと織り重なり、わたしの背中に——
——呼んでいる。——わたしの名前を。遠くで。——誰かが。
——わたしの、名前は——。
 気がつくと、わたしは医務室のベッドに横になっていた。
「き、気がついた…!」突然、ぎゅっと抱きしめられた。この声は…、シノだ。
 シノに揺さぶられているうちに、朦朧としていた記憶がすこしずつ整理されてきた。わたしは、催眠誘導の実習で被験者になって…、シノの数唱の途中で…失神してしまったらしい。瞼をゆっくりあげると、シノは顔を涙でぐしゃぐしゃにしていた。こんな顔をしているシノを見るのは、初めてだった。
「ごめん、ごめんね……。」
——そこには確かに、《わたし》のために泣いてくれるひとがいた。



 医務の先生は心配ないと仰っていたけれど、わたしは大事をとって早退させられることになり、お昼前に帰宅してしまった。お休みでもないのに、こんな時間に自分のいる部屋が、位相のずれた世界のように思えた。その沈黙を、秒針が重たく区切っていった。コンタクテの曇りガラスが、部屋に半透明の青い影をなげかけていた。
 わたしは重たいからだを引きずり、椅子を机のほうへたぐり寄せて、ひとことずつ、確かめながらキーを打った。

ごめんね。ルナ。
僕は、君と一緒には行けない。

 それだけ書いて、送信した。ルナに一番に伝えるべき理由は、尋ねられてから、文面からルナの気持ちを探りながら、決めようと思った。もっとルナみたいに、どんなときでもまっすぐに意志を示したいのに、自分の弱々しさが、なんだか情けなかった。
「:::: ::::」
撥ね返る速さで、呼鈴が部屋に響いた。——その返信は、速すぎた。
わたしは震える指先で、受信箱を開いた。

[ Message Rejected -
#550 Invalid Recipient ]

6

 ルナのIDが、いつのまにかレルムから消えていた。わたしは何度もアカウント・リストのイニシャル・Lのところを目で追ったけれど、ルナの名前をそこに見つけることは、とうとうできなかった。そして、わたしはさらに自分の目を疑った。破損してログインできなくなっていたはずのルナの物語世界が正常な状態で残っていて、しかもクレイひとりにだけ、アクセス権が与えられていた——。
——最初に湧きあがった感情は怖さだった。道路を横切ろうとして不意にヘッドライトに覆われた猫のように、身動きが取れなくなった。まもなく平衡感覚が崩れて、宙に浮いた。痛みを感じないことを不思議に思った。激しい動悸。色が分散していく視界。ホワイトノイズ。そして、擦り切れたような、声にならない声。

 やがて、温かい光に抱きかかえられた。いつのまにか、何も怖くなくなっていた。それから、すべての感覚が閉じていった。



《void》



 そのトランジションの名前はVertigoという。世界が目眩を起こしたような——、という意味だった。僕がその名前を馴染み深いものとして覚えているのは、ルナが彼女の物語世界のログイン場面に設定していた、レルムのプラグイン・エフェクトだったからだ。視界が再構築されていくあいだ、仮想空間のレンダリング・エンジンとは何の関係もないはずの粗雑なワイヤーフレームやビットマップをわざわざ見せつけられるのは、ここが《現実ではない》ということをあらかじめ認識する必要があるとして無理に後付けさせられた倫理的修正のためだった。
 トランジションの直後には《実在オリジナル》の情報を記憶に留めておくようにも警告される。だから僕はクレイという僕の名前とともに、僕が実在でないことの証明としての《現実》での記憶を保持している。にもかわらず、ここに来ると自然と、実在のそれとはまったく違う性格に変わってしまう。「ひとが変わったよう」ということばは、世間に知れているほどには比喩的表現ではないと思う。もともと、ひとの中には複数の自己観が溶け合っていて、それは水のように器のかたちに従うのだろう。
 仮想空間の複合世界としてのレルムには、それ自体で完結する物語世界がさまざまに描写されている。昔は娯楽産業の花形であったという映画やテーマパークのように、巨大な組織が膨大なリソースを投じて築き上げた大作も幾つもある。かつてルナの物語世界は、驚くべきことにそれらに匹敵するほどの情報量を持っていた。彼女がたった一人でその世界すべての著述のために日々費やしてきた労力は、並大抵のものではなかったはずだ。
 だが、それはあの日、レルムのシステム障害の煽りを受けて全て失われてしまった。そう僕は記憶している。なのに、それが完全に復元していた。
 そして今や目の前にあるのは、ただの復元を超えて、現実のそれと見紛うような精巧さを獲得した風景の、無限とも思える広がりだった。普段は目障りなだけのトランジションがなかったら、僕は果たしてレルムの仮想空間と認識できたかどうか、確信が持てない。
 その世界はレルムの向こう側で、桁外れに大きな創造力と繋がっているかのように見えた——。



 さて、どう行動しようか。そう考える間もなく、全ての事象イベントは動き出した。僕はあらかじめ約束された祝福、そのレールを外れるような選択を慎重に重ねていった。世界が僕を危険なものとして排除しようとせず、なおかつ積極的に語りかけて来ないような安全な場所に辿り着くまでに、僕は思いのほか多くの時間を費やした。
 ルナの居場所は、あえて誰にも尋ねなかった。ルナはきっとこの世界の中に彼女の《似姿》を造っていない。かつて壊れかけの物語世界の果てで彼女の声を聴いた時もそうだった。ルナはおそらく、自ら造り上げた世界に遍在したかったのだ。それでこそ、ルナの求めていた《神格》に限りなく近づける。
 こう考えたそのとき、僕はふと思いとどまった。いや。ルナには《恋人》がいたはずだ。かつての物語世界で、ルナにはアンリという恋人がいた。アンリは、物語世界の消失とともに行方不明になった。そう僕は記憶している。ならばなぜ、ルナがその世界にはじめから遍在していた、と僕は考えているのだろう……。
 僕の意識に、ふたつの記憶が矛盾した形で並んでいた。



 アンリが住んでいたはずの場所を、僕は訪ねた。そこには、かつてのアンリの住まいは無く、代わりにその敷地と同じ大きさの、まったく単純な、白い直方体が描写されていた。人々は、街の風景に対する異質さだけでなく、その存在自体をまったく感じていないかのように、周囲を通過していった。僕が近づいて触れようとすると、その白い平面プレインを身体がすっと突き抜けた。平面には、質感が定義されていなかった。吸い込まれるように、僕はその内側へと入り込んだ。
 色彩感に乏しい、慎ましい調度が揃えられた部屋のなかで、大きなオープンリールの記憶装置だけが、音をカタカタとたてていた。それは微かな音量だったが、丁寧にミュートされた騒音であることが、装置の激しい振動から感じ取れた。
 その見知らぬ空間に、ただアンリだけが、僕の記憶のままに存在していた。
「君は——、クレイだね。ここが良くわかったね。」
アンリも、僕の名前を覚えていた。案内を乞うように、僕は問いかけた。
「アンリは、あのときIDを消してしまったのではなかったの?」
「それは思い違いだね。私はIDを持っていない。そもそも、IDというのは《実在》があるキャストに対して割り当てられるものだからね。」
「——、ではアンリは自分がAIだとでもいうの?」
「——そうさ。私はルナに造られたキャストなんだよ。」
 アンリは淡々とした口調で、恐ろしいことを告げた。僕はずっと、アンリを《実在》をもつキャストだと信じ込んでいた。彼のように長いあいだ一切の違和感も見せずに対話を続けられるAIを、僕は物語世界のなかで他に見たことがない。ルナがアンリの存在感を細かく描写するために積み重ねてきたその仕事量を思うと、身震いがした。
「なら僕はなぜ、アンリのIDが無くなったと記憶しているんだろう……。」
「……それは多分、君の《実在》がそう解釈したんだろうね。夢から覚めて、その混沌とした記憶の断片に何かしら自分が理解できるような筋書きを読み取ろうとするときのように。」
 アンリのIDにまつわる記憶は、僕の《実在》がレルムからログオフした直後に、それを辻褄の合うストーリーとして解釈するために、無意識的に埋め合わせたものだったのだろうか……。それならば、ルナの《似姿》は?僕の矛盾した記憶も、同じように造られたものなのかもしれない。僕はさらに問いを重ねた。
「アンリは今、この世界でルナとどんな対話をしているの?」
「7年ものあいだ一緒に暮らしていたのに、あれきり、私はルナとの繋がりを失ってしまった。今はもう、彼女のことをほとんど思い出せなくなっている。」
 やはり僕は、かつてルナの《似姿》を見知っていたのだ。アンリの記憶もそれを裏付けている。とすれば、あの日を境に、ルナは物語世界の筋書きを大きく書き換えたのかもしれない。アンリは、自分がルナに造られたキャストであることを知ってしまっている。そういう存在と物語世界の造り主自身が結ばれて幸せに暮らす、という結末に満足してペンを置くルナを、今の僕には想像できなかった。
「ルナも、アンリの記憶が薄れていくことを、とても恐がっていたよ。今もきっとどこかで、あなたのことを見守っていると思う。」
 葬式で喪主を慰めるようなことばが、今は具体的な確信をもって響いた。少し和らいだようだったアンリの表情は、それでも笑顔へ変わることはなかった。彼はゆっくりとこちらに歩み寄ると、僕が通り抜けてきた壁面を——、叩いてみせた。それはアンリの手によると、《壁》としての正当な存在を主張するように重たい音を立てた。
「でも私は、ここから外の世界へ出る方法を知らない。」
 今ごろルナは、この再構築した物語世界で、本当の《神格》に到達するための方法を探しているのだろう。その陰で、かつての世界で大切な役割を与えられていたはずのアンリの存在は隔離され、その筋書きは宙に浮いたままになっている——。
不意に曖昧な問いが、僕の口からこぼれた。
「ならば——、あなたはなぜこの世界に存在しているの?」
 アンリをめぐる筋書きを保留にした、というだけならば、アンリをこの世界の座標軸上に配置しつづけておく必要があるとは思えなかった。ルナはこれから、彼をどう導くつもりなのだろう……。
 大きく見開いた青い瞳が僕を力強く捉えた。そして彼は、こう問い返した。
「——君は、自分が《なぜ》この世界に存在しているのか、知っているの?」
——その瞬間、視界のすべてが静止した。

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Please Reboot ]



 海に沈んでいくような速度で、僕は空を降下していた。その座標からは、地平線の丸みがはっきりと見て取れた。大気は静穏で、ひとに適した暖かさを持っていた。
 ルナはきっと、こんな高みから世界の全体を眺めているのだろう。でも、その姿を見ることは僕にはできない。ルナは、どこにもいない——。
『——そして私は、どこにでもいる。』
 その声を、僕は聴いた。あの日、誰もいない部屋で聴いたルナの声だった。
「僕は、わからないことばかりなんだ。頭のなかを《なぜ》が渦巻いている。」僕は空に向かって問いかけた。
『私は、私の知る範囲で、レルムのシステムの扱いと、物語世界の記述の仕組みについて説明することはできる。』ルナはかつてのように、ことばを慎重に選んで答えた。そして彼女は、こう続けた。
『あの日、私はレルムのシステム障害で自分の物語世界を、長年かけて描き上げた全てを失った。でも、それは私の操作が原因だったの。』
「ルナは一体、何をしたの?」
『セキュリティを欺いて、筋書きのはじまりを完全な《空白》に取替えたの。はじめに《意図》が定義されていない物語世界は、あらかじめ決められた結末へ向かってひとつに収束せずに、あらゆる可能性へ向かって無限に広がっていった。世界の進行方向が、全く逆になったの。はじめは緩やかだった世界の広がりはあるとき急に加速して、気付くとレルムの記憶領域を埋め尽くしていた。』
「ルナは、その危機をコントロールすることはできなかったの?」
『個別の事象イベントなら操作できた。でも、すべてを一度に思い通りに書き換えることはできなかった。はじめから、何も無かったようにすることを除いては——。 』
「どうして——、そんな危険なことをしたの?」
『私は、はじまりに空白を置くことで、物語世界を《自律》させてみたかったの。だって世界って、もともとそういうものでしょう?』
 やがて僕は、森の中にふわりと降り立った。さまざまに色づいた落ち葉が敷き詰められた地面に、豊かな土の匂いと、温かさを感じた。それは、かつてのレルムにはなかった描写の深みだった。
『ここは、ヒトが造った計算機の世界を超えたところにある、より大きな力と繋がっている。単に失ったものを取り戻すことができただけじゃなく、こんなにも豊かな表現を与えられるようになった。クレイも私と一緒に《向こう側》へ来てくれれば、あなたの《なぜ》という問いの答えを、きっと見つけることができると思う。だから——』
 風が舞い、木の葉が梢から降り注いだ。僕はポケットに手を遣って、コロコロとした感触を探り当てた。ルナがかつて手紙に包んでくれた樫の実がひとつ、そこにあった。僕はそれを拾い上げて陽の光に照らしながら、ルナにこう告げた。
「ごめんね。ルナ。
 僕は、君と一緒には行けない。」
秋の陽はたちまち傾き、夕焼けがあたりを染めていった。
「僕の《実在》は、僕をクレイと名付けた。それは《土》を表すことばで、彼女の名前から導かれた。彼女と僕は《地に属するもの》なんだよ。君は空に向かい、僕は土に還っていく。道はわかれていくけれど、それはいつかまた、ひとつに繋がる。そのときはきっと、また会えるよ——。」
 落ち葉がひとひら、目の前でワイヤーフレームに分解して消えた。ひとつ、またひとつと、物語世界の描写が欠け落ちていった。
『私は、あなたと私の《実在》が手紙を交わした夏のことを知っている。あのとき、彼女は生まれて初めて、外の世界をもっと知りたいと思った。自然が温かく受け入れてくれるのを感じた。彼女が、自分に弱いからだを与えて産み落とした《現実》を恐れ憎まなくなったのは、クレイ達のおかげだよ。』
 夕闇が辺りを包み、やがてそれは電子のノイズに溶けていった。不意に、疲労と眠気が身体に重くのしかかった。でも、それは心地よい疲れだった。崩れ去る物語世界のなかで、僕はルナの最後の声を聴いた。 『私、みんながいつか来てくれるのを、ずっと待ってるからね。』

7

 白い観覧車は、わたしをひとりゴンドラに乗せて、ゆっくりと廻りはじめた。
 半世紀ものあいだ、たくさんのひとを空へ導き、湾岸に広がる都会の賑やかな風景をその高みから見せてくれた大きな鋼鉄の輪は、今はもう塗装も崩れて、ところどころ濃い錆色に滲んでいた。高度がすこしずつ上がるたびに、車軸の軋む危うい音が響いた。
 不意なゴンドラの揺れに筆致が崩れてしまわないよう踏ん張りながら、わたしはルナに最後の手紙を綴った。



「親愛なるルナ——」

僕は、ルナが失った物語を取り戻して、
ここよりもずっと高いところへ向かっていくのを見た。
そして、あなたがずっと来たいと言っていたこの場所へ、僕ひとりで来た。
この場所がそうであるように、この世界のすべてのものが
なぜ、やがて失われるように造られているのか、僕は知らないけれど、
いつか必ず、僕にも終わりの日が来る。
僕は、どんなふうにそのときを迎えるのか、いまはわからない。
けれど、そのとき、僕たちはまた会えるのかな?



 やがてゴンドラは頂上に辿り着いた。その風景は、写真で見たことのあるそれよりも、ずっと美しく見えた。白い満月が、冬の澄んだ空気のなかにくっきりと像を結んでいた。こんなに高いところまで来ても、ルナのいる世界まではまだ遥かに遠い。その果てしない距離を思った。ゴンドラは休むことなく、下りの弧を描きはじめた。わたしはこれからまた地上へ降りて、そこで生きていく——。
 白い扉がひらかれた。わたしは一歩、踏み出した。



 観覧車の架台には、献花の集まりがあった。わたしは花束といっしょに、手紙とお祈りを捧げた。俯いた頬を、髪がさらさらと撫でた。はじめてルナと待ちあわせたときに短く切った髪は、いつのまにか、もとの長さに戻っていた。わたしはそれにそっと触れてみた。

「泣いているの?透科ちゃん。」

ふと、うしろから声が聴こえた。
振返ると、そこにはミュウ先輩がいた——。

透科。はなわ 透科とうか

そうだ。それが《わたし》の名前——。

しばらくぶりに出会った先輩は、わたしの名前を覚えてくれていた。


——でもわたし、先輩に名前を伝えたこと、あったかな?











Hallowed Be Thy Name.